配志和の森さんぽ見出し画像

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三宝大荒神社

千田一司

例祭の写真

<写真:例祭>

 配志和袖社境内参道に入ると、北側に三宝大荒神社と掲額した社宮が目に入る。境内に建立されたものであるが、摂社、末社のいずれでもない。元は「鍛冶町」とも「川原田」ともにあったという。昭和二十三年の水害にて倒壊したので、心ある有志が協議の上、現在地に移築したものです。
 東北地方における三宝荒神信仰は多岐にわたっておりますが、大別して三つに別れております。一つには「火を司る神」、二つには「土地を守る神」、三つには「牛馬を守る神」といわれております。当三宝荒神はその中のひとつ火を司る神として祀られたといわれております。
 今から約三百年ほど前の正徳年間に、当山目に勝道という若者がいて、何とかして一人前の刀鍛冶になりたいと志し全国の刀鍛冶をまわったが、容易に受け入れてくれる師匠に巡り会えなかったが、濃州関(岐阜県)にて名刀匠兼道の門にて修業、長年の努力の甲斐あって遂に、相州伝の奥義を極める事が出来たのである。師匠からこれ以上教えることはない。郷里に帰って一層、技を磨くよう言われ、師の兼道から一字をいただき勝道と名乗るようになった。喜び勇んで郷里に錦を飾り、小坂橋付近に居を構え、炉をたて一隅に守護神として三宝荒神を祀ったのが始まりという。

三宝荒神が祀られてあったという鍛冶町小坂橋付近の写真

<写真:三宝荒神が祀られてあったという鍛冶町小坂橋付近>

 なぜ、配志和の地に移したかは不明であるが、ひとつには地方の総社であるということ、もうひとつには配志和御社の祭神には火の神に深い関わりのある神があるため等が考えられる。
 これら一連の努力が実って勝道の子孫は数代にわたって栄え、遠近よりその名を聞き教えを請う者数知れずと評している。一方、一関田村藩よりも何回となく御用命を賜り、その光栄は一層勝道の斯道精励を積み重ねたといわれる。
 当然のことながら、教えを請う者達は近くに居を構えるようになり、鍛冶の種類も刀鍛冶に限らず農器具、家事用外の鍛冶まで盛んになり、ついにその通りが街並をなすようになり、地名も誰いうとなく鍛冶町という文字通り職業地名のついたのも事実であり、いろんな形で地名に及ぼした影響は大であった。

三宝大荒神社の写真

<写真:三宝大荒神社>

 以来、荒神信仰には鍛冶職にたずさわる人はもちろん、他の職に生きる人達もこのように地域が栄えたのは三宝荒袖の守護によるものという根強い民俗信仰がそうさせたものであろう。



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