配志和の森さんぽ見出し画像

菅江真澄の訪れ

小野寺啓

古枝の梅の名残りを伝える参道の梅の写真

<写真:古枝の梅の名残りを伝える参道の梅>

 「はしわのわか葉」の天明六年(AD1786)四月十一日の記録に、昔は梅がとても多かった地で、乱梅山と云い蘭梅山とも書き、また梅が嶺と云い梅が森と云った。

 土御門泰邦卿の歌に『みちのくの梅もり山の神風も、吹つたへこしわが心葉に』があり、この社の神は「文徳天皇実録」四巻に仁寿二年八月、磐井郡にある式内社として「配志和ノ神」がおられるとある。

 江戸後期の大旅行家とも民俗学者とも称される菅江真澄が、この地を訪れたのは天明六年である。大槻家に滞在した時に五度ほど、配志和さんに詣でているが、その時の記録が残されている。「かすむこまがた・続」三月二日に、うつほ木(空洞)の梅が紅色の花を咲かせようとしていたが、厳かな美しさであった。この古木は菅原道真公の子息敦茂卿が、京から持参した種をまいて育てたものだと云う。卿の亡骸(なきがら)が納められた所に目印として植えたものが、「卵場(墓地)の杉」と呼ばれていることも記している。京の都から陸奥国まで遠く流された卿に心寄せられ、『いくよゝ(幾代も経た)を、ふるえ(古技)の梅の匂ふにぞ、うえにし(植えた)きみ(敦茂卿)のをもかげ(面影)に立つ(偲ばれる)』と詠んでいる。



安倍泰邦卿筆の社名額の写真

<写真:安倍泰邦卿筆の社名額>

 「はしわのわか葉」四月十一日では、配志和さんに参詣したが、若葉が伸び始めていた。鳥居の額の土御門泰邦卿の書風を讃え、御神体の三神に祈り、境内の宮々に幣(ぬさ)を捧げてまわった。千年も経たかと思われる姥杉の技に山桜が寄生して、花がいたく(沢山に)咲いていた。真澄はふり仰いで『いつまでも、ちらでや(散らないで)見なん杉が枝の花もときわ(常緑)の葉にならはば』と、思いを込めた。

 「はしわのわか葉・続」九月十九日では、配志和さん宮前では家ごとに、場所いっぱいに売り物を並べ、見世物等が「こも」(むしろ)で囲った小屋で喧しく歌っている。これは、十六日に神社の祭礼があってから続いている売り買いである。二年に一度の祭りで「たかまつり」といっている。この祭りの始まりは、日本武専(ヤマトタケルノミコト)がこの社の神の御魂を鎮めるために、「天孫降臨」の故事にあやかったものである。これが今に伝えられているのであるとして、猿田彦太神や少彦名神や「むろ(室)焼き」神事にも詳しく触れている。



山桜の寄生した姥杉はこのような杉だったのだろうかの写真

<写真:山桜の寄生した姥杉はこのような杉だったのだろうか>

 「雪の胆沢辺」十月八日には、梅森山の斜面の紅葉を見ているが、あまりにも美しかったので『梅杜の、山のもみちのくれないは、はるのこうめ(小梅)のいろもをよばじ」と詠んでいる。十月二十九日にも、配志和の社に詣でたことが記されている。

 菅江真澄四十年の旅の生涯の中で、五度も訪れた場所はそう多くはなかったのではなかろうか。それほど、引き付けられ心に染み込んだのが、配志和の森であった。



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