配志和の森さんぽ見出し画像

若宮八幡神社

小野寺啓

若宮八幡神社拝殿の写真

 岩手県神社名鑑では、誉田神別命(ホムタワケノミコト)が祭神で九月十五日を例祭としている。現在の宮司は荻野圀範氏である。宝暦風土記には、若火杵宮(ワカホギノミヤ)俗に若宮八幡、瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祭る。そして近くに大日宮あり、俗に伊勢宮、諾冉(ダクゼン)二神を祭る。右二座赤荻村に在り、とある。国産み神や武神を祭神としている。

<写真:若宮八幡神社拝殿>

 安永風土記になると、別当観鷲院とのみ記し、祭神・由来がない。しかし、近くに若宮館を載せ、源頼義公御陣所とあり、神社の下には名水が湧き、岩清水というとある。

天明六年、「はしわのわか葉・続」では、『赤荻という村あり。いにしへこゝに配志和の末社ありて、若火杵(ワカホギ)の社といひしを、あかうぎといひしならん。今は、わかみや八幡といへり。』。そして、配志和袖社の末社は百余りもおわしましたけれども、今はただ三十二の末社の神だけが残っていると説明している。「赤荻」の地名起源となっているだけに、土地の人々に古代から信仰された社なのであろう。



配士和神社の神輿を担ぐ赤萩中条地区の若宮童子の写真

<写真:配士和神社の神輿を担ぐ赤萩中条地区の若宮童子>

地元伝承によれば、現在の配志和様は元は赤荻の「刃蔵森(ジンゾウモリ)」に鎮座していた。磐座山(イワクラヤマ)がその地で、擬定地は烏森の東、山居沢道と餅搗澤道の間だという。「三十六社家」と言われた天台系の世襲修験の家筋が、この地から現在地に移したというのである。その子孫の家々は、中条地区を中心とし て古屋敷地区に残っており、今も式年大祭の時は、ここの人たちが聖なる神輿を担いでいる。泥田廃寺は配志和様の神宮寺で山目寺といった可能性が強いとする研究者もいる(司東真雄説)。

 ところで、配志和神社の発祥地が、始輪之森即ち「烏森」そのものであるとする見・万もある。「刃蔵森」は「ハクラ森」で「磐座山」を指す。その場所は、「九本松」で現在の四号線バイパス大槻地点から平泉方面上り坂の右手小高い山だとしている。神事もそこで行ってきた。変遷の歴史が伺えるというものである。

 国道三四二号(厳美街道)から遠望する峰々は、経壇山、始輪森(烏森)、磐座山、蘭梅山と古代からの神々の山々であった。


若宮八幡神社鳥居と参道の写真

<写真:若宮八幡神社鳥居と参道>

 この地になぜこのような神々が存在したのか。この地は蝦夷勢力拠点を前面に控えて、坂上田村麻呂、源頼義伝説、前九年における金為時の泥田での落馬死伝説等あり、天孫降臨の神の祭神は、奥羽開拓と深い関係があったと思われる。やがて、鎌倉期になるや、葛西氏支配下の赤荻館主(日光館)小岩氏の影響で、「若宮童子」信仰が流布されたのではないか。本寺の若神子宮もあるので、当時、巫女集団の活躍もあった事であろう。もともと、ルーツは熊野の王子、宇佐八幡の若宮であり、岩清水八幡では松童を眷属神(従神)とし、肥前風土記では、雷神を「ちいさこ部」と稀した少童信仰があった事が記されている。地元では、若宮童子は幼い源義家だとしている。

 若宮八幡社の九月の祭日には、中条地区の氏子によって、幟(ノポリ)を立てたり、神楽を奉納したりしている。



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