配志和の森さんぽ見出し画像

延喜式内社

千田一司

ご本社拝殿正面の延喜式内社社額の写真

 延書式とは国家の基本法の施行細則であり、それまでの諸制度に検討を加え集大成した規則であります。

 延長五年(AD927)左大臣藤原忠平等によって二十年の歳月を要し完成。当時としては国の指針を示した最高の史書であります。

 その内容は朝廷をはじめ、国の経営にかかるすべての方法、国民の暮らしにかかる産業経済、風俗等社会生活に至るまでを包含した制度であります。

<写真:ご本社拝殿正面の延喜式内社社額>

 その中の一つに「延書式神明帳」の項があり、これに登載された神社を「延喜式内社」と称し、国が認めた官社となるのです。これらの官社は全国に二八六一社、奥州百座、磐井二座となっており、配志和神社もその一つであります。

 この延書式の中に出てくる神社名、郷名、地名等は、平安時代或いはそれ以前から存在した名称にして、今日に至るまで国民住民が日常より愛着を覚え親しんできた呼称で、その足跡を知る上で貴重な史書といえる。特に神社の場合は、当時の政治や暮らしが神道中心であったため、心の寄り所としての信仰には異状なものがありました。中でも官社としての社格には特別な御神徳をと信仰を集めたようであります。



白鳥伝説

千田一司

白鳥神社石宮と一関市文化財指定の千年杉の写真

 白鳥伝説というのは、ヤマトタケルノミコトを祀ってある神社ではよく耳にする伝説である。その原典はヤマトタケルノミコトが東夷征討を終えて帰途尾張国のミヤズヒメのところに落ち着き、後、伊吹山の荒ぶる神を退治に登るが、遂にこの神のため体力を失い伊勢国の能褒野(のぼの)にて薨ぜられた。これを聞いた天皇は非運の我が子を偲んで伊勢の能褒野に墓を造営させる。この時に白鳥が墓から飛び立ち倭(ヤマト)に去ったという伝説が発端である。

<写真:白鳥神社石宮と一関市文化財指定の千年杉>

 配志和神社では、境内参道入り口北側にある石室が白鳥社である。何時誰が建立したかは不詳である。状態からして江戸時代の建立かと思われる。「火石輪宮」を勧請したのがヤマトタケルノミコトとなってあり、ミコトの社跡のあるのは当然であるが、なぜ境内の入り口下にあるのか不思議である。赤荻の「日高見山火石輪宮伝記」に弘安四年(AD1281)七月元軍(げんぐん)襲来に際し、朝廷の命にて祈祷をしたところ、不思議にも日高見山の鳥が何万羽となく白鳥の先導にて西へ飛び去るという伝記があります。



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